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真正仏舎利、第1の渡来

真正仏舎利、第1の渡来


由緒正しい真正仏舎利が海を越えて日本に渡ってきたことは、これまでに2度ありました。
第1回目は、1900年(明治33年)6月に、シャム(現タイ王国)の国王より日本に贈られた仏舎利です。
 この仏舎利は、1898年(明治31年)、英国人ペッペが釈尊誕生の地であるルンビニーの遺跡から発掘したものであり、発掘に際しては仏舎利の他にもいくつかの歴史的に貴重な遺物が発見され、当時の学会から、たしかに貴重な釈尊の遺宝であると認められました。
 ペッペは、発掘されたこれらの遺宝(仏舎利と宝物)を英国政府に寄贈。英国政府は、仏舎利を、当時、仏教を信仰する王としては世界でただ一人の方であったシャムの国王に贈りました。


ペッペが発掘した石棺。この中から仏舎利を
納めた舎利容器が発見された。
 その後、日本の公使からのシャム国王への懇望の結果、この聖なる釈尊の遺骨の一部が、国家から国家に贈るという形で贈与されることになったのです。
 この知らせを受けて、日本のすべての仏教宗派がこれを歓迎して仏舎利をお迎えすることになり、1900年(明治33年)5月23日に代表団18名が日本を発って、6月12日にシャム国の首都バンコクに到着し、国王から直々に仏舎利を授与され、7月19日に京都に到着しました。
 百一発の花火の轟に迎えられて京都に到着した仏舎利は、仮かりの奉安殿に奉安するために、新しく作られた輿こしの上に安置され、日本の仏教諸宗派が行列を作って約3キロの順路を練り歩きました。行列には僧侶が1万人以上連つらなり、その信徒とあわせて3万人以上の人が参加したため、行列の長さは3キロにもなったと伝えられています。
 行列が練り歩いた道路に面した家々では、仏旗を軒先に掲て仕事を休み、また、家の宝として大切に保管していた屏風を道路に面して公開したりと、大歓迎しました。
 仏舎利の通過を見ようと集まった人々は数十万人に達したという、前代未聞、空前絶後の大イベントでした。


このように、当時の日本人は仏教にたいする信仰が篤く、真正仏舎利の到来を心から喜び迎えました。なぜなら、当時の日本人にとって、仏舎利はたんなる釈尊の遺骨ではなく、化身であり、生きた如来であったからです。



仏舎利渡来の模様を1ページ全面にわたるなど。繰り返し報じた「日出新聞」。(現京都新聞)
上は明治33年7月20日付の記事。下はイラストでバンコクでの奉迎の模様を伝えた6月14日付の記事。
当時の熱狂的な様子がうかがえる。



 しかし、その後、幾多の戦争その他の大きな歴史的変動の中で人々の信仰心も薄れ、「仏舎利」とは、宗旨宗派の別なくすべての仏教徒にとって「お釈迦さま」そのものであり、いかに貴重なものであるかという伝統的・基本的知識が、忘れ去られてしまったのです。そのためか現行の日本史の書籍には、これほどの歴史的出来事が記述されていません。(このときの真正仏舎利は、現在、愛知県名古屋市の覚王山日泰寺に納められています。この寺はどの宗派にも属しておらず、各宗派の管長が、3年交代で住職を務めています)